ソフトバンク孫さんの創業期の「恩人」たち
ソフトバンクには「恩人感謝の日」というものがあるらしい。「恩人感謝の日」は毎年ゴールデンウィーク中の平日1日があてられ、休日になっているようだ。この「恩人感謝の日」は孫さんが創業時にお世話になった恩人を想い、制定されたものらしい。孫さんはその恩人に毎年胡蝶蘭などを送っているそうだ。
その孫さんが「恩人」と呼ぶ人は6人とも7人とも言われているみたいだけど、いったいその6人、7人が誰なのかはネット上には明確には載ってない。唯一Yahoo知恵袋にあった回答などを参考に、ソフトバンク初期の孫さんの「恩人」と思われる方々のエピソードをまとめてみました。
1.佐々木正(シャープ元副社長)
「すべては佐々木先生との出会いから始まりました」と佐々木さんの百寿を祝う席で孫さんが挨拶したことからもわかる通り、ソフトバンク、孫正義の起業家の出発点を作ったのがシャープ元副社長で「電卓の生みの親」と呼ばれる佐々木正さん。
1977年に孫さんがカリフォルニア大学バークレー校在学中に共同開発した「音声機能付き電子翻訳機」をシャープに売り込んできて、佐々木さんはそこで資金1億円を与えた話はとても有名ですよね。その1億円がソフトバンク創業時の資金になったのは言うまでもありません。
また、その後にソフトバンクを創業し、ソフトの流通業を行う際、ハドソンに預託金を納めないといけなかった。資金が無かった孫さんは銀行に無担保融資を依頼。しかし、無名のベンチャーに1億円も貸せない。そこでも佐々木正さんは一役買います。
http://president.jp/articles/-/16742
「1億円という巨額の融資を一支店長の裁量では決められません。何か担保はないのかと聞く支店長に、孫さんは苦しまぎれに僕の名前を出したらしい。銀行側は驚いて本部の役員を介して照会を求めてきたのですが、僕は『孫をたのみます』と答えたのです」
そのとき佐々木は、万一の場合に備えて自宅と退職金を担保に差し出すつもりだったと語る。こうして融資は実行され、孫は危機一髪のところで救われた。孫はそのときの恩を胸に刻んだのである。
この辺のエピソードは出光創業時の日田重太郎さんの振る舞いを思い出します。
2.工藤浩、工藤裕司(どちらもハドソン元社長)
ファミコン世代の僕にとってハドソンと言えば「ファミコンソフトの会社」「高橋名人の会社」というイメージであるが、孫さんと工藤浩さん(当時ハドソン専務)が出会った頃はマイコンの本体、ソフトで全国規模の会社として存在感を見せていたようです。そんなハドソンに孫さんは「ハドソンのソフトを独占契約で流通させてくれ」と持ちかけた。
http://news.livedoor.com/article/detail/7306083/
「私には思いもつかない世界規模の大ボラ(苦笑)を語る彼の強い信念に賭けてみたくなったのだと思う。あの目を見たら、これに賭けなきゃ、ビジネスをやっている意味がないって」
工藤はそれまで良好な関係にあった取引先との関係を断ち切り、3歳下の駆け出しにすべての商品を卸す独占契約をした。工藤は全く未知数の孫に賭け、孫もまた持っていたすべてを工藤に賭けた。そして共に勝った。
ハドソンとの独占契約を勝ち取ったかわりに「預託金」が必要となり、前述の佐々木さんの項でのエピソードに繋がります。ちなみに工藤浩さんの兄で当時のハドソン社長工藤裕司さんも同じく「恩人」ではありますね。
3.浄弘博光(上新電機元社長)、藤原睦朗(上新電機元常務)
エレクトロニクスショーという大きな家電エレクトロニクスの展示会に松下、ソニー並の巨大なブースを出展した孫さん。資本金1,000万円のうち800万円を投じるという大勝負。さすが孫さん。
その展示会で孫さんの存在を知ったのが当時上新電機の部長であった藤原睦朗。「これは面白い奴だ」と社長の浄弘博光さんに「会ってみてくれ」と依頼。「藤原が推薦するとは凄い奴に違いない」と東京のソフトバンクのオフィスに訪問します。
http://www.asagei.com/excerpt/7522
「藤原が言っていたが、キミか‥‥」童顔でまだ学生だと言っても通るような青年が出てくるとは思ってもみなかった。しかも、間借りしていた事務所には、机が2つ並べられているにすぎない。何とも閑散としている。
「日本中にあるソフトを一堂に集めて、すべてが揃っている店、日本一の店を作りましょう。だから独占的に品物を供給する権利をください。他からは一切入れない。その代わり、自分も徹底的にやります。やらせていただいたら、他のいろんなアイデアを出します」孫は一息にまくしたてた。
展示会で「ピン」ときた藤原さんも凄いし、瞬時に孫さんを見極めた浄弘博光さんも凄いですね。
4.御器谷正之(当時第一勧業銀行麹町支店支店長)
ハドソンとの契約時に駆け込んだ銀行の支店長。自分の子供と同じくらいの年齢の孫さん(当時24歳)の情熱にうたれ融資を実行。とは言え支店長決裁で融資できる金額ではなく、関係各所との連携や独自調査など融資するための「裏付け」に奔走。銀行の支店長が彼でなかったらソフトバンクに融資は実行されなかったかもしれない。
http://animegroove.web.fc2.com/shark/son/soncrisis.html
御器谷支店長は、孫の情熱、真摯さなどに心を打たれてて「前向きに考えます。」と答えた。支店長が自分の一存で融資できる金額は一千万円までであった。本店の審査部門に案件を申請すると同時に、大阪支店にはシャープの佐々木専務との関係、難波支店には上新電機の浄仏社長との関係を調査した。そして孫の話したことに嘘がないと確信した。御器谷は自分の首と退職金を担保に融資をしたと後に語っている。
5. 植松逸雄(ハドソン元社長室長)
https://note.mu/metakit/n/n7f13419dabf1
植松は孫さんと一緒に九州から東京に出てきてソフトバンクを作った男である。植松の話によると、博多でビジネスゲームのセミナーを主催していた時に、受講生として参加してきたのが高校生の孫さんだったということだ。そこで意気投合して友人となり、やがて二人で上京して日本ソフトバンクを創業する。
橘川幸夫さんは渋谷陽一さんらと『ロッキング・オン』を創った人だが、その橘川幸夫さんがnoteに植松逸雄さんの追悼記事を書いており、そこに孫さんとの関係が詳しく書かれている。詳しくはnoteをご覧頂ければと思いますが、植松逸雄さんは業界で無名の若者であった孫正義を時代に送り出し、自分は裏方に徹した。そんな人のようだ。
6.野田一夫(日本総合研究所会長)
「平成の吉田松陰」とも呼ばれるらしい野田一夫さん。孫さん、澤田秀雄さん(HIS)らが師と慕う方とのこと。
http://toyokeizai.net/articles/-/6375
昨年ある雑誌でソフトバンクの孫正義君と対談した際、彼が30年も昔の僕との会話を克明に覚えていたことに驚いた。“夢”と“志”の違いについて、僕は「夢は誰もが心に描く快い願望だが、志は人々の願望を実現せんとする厳しい決意だ」と彼に説いて聞かせたそうだ。以来、孫君はその言葉を片時も忘れずに生きてきたとのことだった。
7.笠井和彦(ソフトバンク元取締役)
最後にちょうど3年前に亡くなったソフトバンクの元取締役笠井和彦さんをあげてみます。「創業当時」の恩人ではないかもしれないですが、孫さんにとってかけがえの無い「恩人」の一人だと思い紹介しようと思います。
http://news.livedoor.com/article/detail/8626341/
僕にとっての最大の名キャッチャーだったと思います。僕の肩に力が入りすぎてるときは、「社長、そんなにカンカンカンカン、若いもんを怒っちゃいけませんよ」と、肩の力を抜くことを諭してくれました。僕が弱気になってるときには、「ガンガンいきましょう」と、励ましてくれましたね。
笠井さんの葬儀での孫さんの弔辞から。この弔辞を見てると、孫さんにとってほんとにかけがえの無い方だったんだなぁと改めて思います。
今回は以上になります。他にもたくさんの「恩人」はいらっしゃるかとは思いますが、今回はこの辺で。自分にとっての恩人は誰ですかね?